地獄の出口を求めて

おじさんの地獄生活の記録。某国立大で博士号を目指して研究に従事。しかしギャンブルにハマり多重債務者になり借金を背負っての地獄の日々。地獄からの脱出のために日々思ったことやったことをここに綴りたい。

善を積む

 日本語には一日一善という言葉がある。善行を積むことは良いことだという意味だ。今日近所のスーパーマーケットでのある出来事でこの言葉が頭をよぎった。買い物を済ませレジで支払いをし、レジ袋に買った商品を詰めていたら少し離れたところに杖をついた老人がいることに気付いた。スーパーではよく見る光景だから何も気にしなかったけど、その老人が品物をレジ袋に詰めている最中に杖を落とした。拾おうと頑張るものの腰が悪いのか床に落ちた杖に手が届かない。ちょっと情けないけどそれを見ていた自分は助けてあげようか少し迷った後老人の杖を拾ってあげた。老人は特にありがとうとか何も言わなかったけど気持ちよかった。久しぶりに他人に対して良いことをしたし期待していなかった満足感とでも言えばいいのだろうか、そういう気持ちになった。


 一日一善、善行を積む、これは本当に自分にとって良いことなのかもしれないと思った。そしてもう一つ思ったことはこれこそ自分が探し求めていた地獄からの出口へと繋がっているのではないかと思った。毎日を人の助けになるようなことをなるべくするようにしていれば荒んだ自分の真っ暗闇の心が徐々に浄化されて行くのではないか。そう思った。人を助け自分の心が喜べばいつかは闇は消えるのではないか。


 今の自分には自身でコントロールするのが難しい闇もある。それはうつ病だったりギャンブル依存であったりする。これらが払拭されるかどうかはわからないけどこれ以外の闇ならどうにかなるかもしれないと思う。自分が思うに闇というものは人間だったら誰もが少なからず持っている。落ち着いて自分を見つめてみれば誰もが自分の闇に気付くことができると思う。誰かが嫌いだったり、妬みだったり、ずるい部分だったり人によっていろいろだと思う。自分も例外ではない。機嫌が悪い時はいらいらしたり、嘘をついてしまったり、人の良い部分ではなく悪い部分ばかり見てしまうとかである。でも心が喜ぶこと、つまり善行を行うことによってこう言ったものは少しずつ改善して行くような気がする。そしてこれを積み重ねてゆけばいつかは胸を張って自分は善人だと言える日が来るかもしれない。


 でも自分の心の闇を払い浄化するために良いことをするというのは非常に利己的な考えではないのかとも思う。結局自分が得するために善を行うわけで、これは善ではなく偽善なのではと思ってしまう。真の善を行う人というのは何も考えずに自然とやっているのだろうし。そういう人は綺麗な心を持っているのだろう。自分にはこの真の善を行える心が備わっているのか正直怪しいところだ。ここまで心が闇に落ち荒んでしまっていては自分の心に少しでも光の部分があるのか考え込んでしまう。でも、確かに言えることは今日スーパーで老人の杖を拾ってあげたときには何も考えてなかった。自分が得するのか損するのかの考えは一切なかった。これはまだ心に光のかけらが残っている証拠なのか。すぐに答えは出ないかもしれないけど偽善者と呼ばれようが善を積むことを意識してこれから生きて行こう。