地獄の出口を求めて

おじさんの地獄生活の記録。某国立大で博士号を目指して研究に従事。しかしギャンブルにハマり多重債務者になり借金を背負っての地獄の日々。地獄からの脱出のために日々思ったことやったことをここに綴りたい。

日本の闇

 悪い予感が当たった。昨日金が入りひさびさのまとまった金額を手にしたら我慢できなかった。衝動に負けてしまった。負けだったが全部もっていかれなかったのが唯一の救いだったのかも。でも、本当はそういう問題じゃないんだよな。パチンコって勝ったか負けたかだけじゃない。勝っても負けても打ったという事実があり必ず次へと繋がる依存、いわゆる脳汁というものが脳の中で分泌される。それで次の日もその次の日もこの脳汁、興奮、刺激を求めてパチンコ屋に足が向かう。そういう意味では打った時点で負けが確定する。パチンコで勝ち続け生計を立てていた人間は確かに昔はいたが今はパチンコで勝ち続けることは100%不可能。ずっと打ち続ければ必ずやけどする。そのうち大負けをし財布が空っぽになり借金の額も満額になる。そういうカラクリになってるんだよな。だから中毒、依存症と言われる。依存性が極めて高くいったん捕まったら自分の意思ではなかなか辞めれない。


 パチンコ屋やパチンコ台の広告はだいぶ前に法規制によって禁止になった。テレビをつけてもタバコの広告を見ないのと同じ理由だ。人に悪影響を与えるものを堂々と宣伝してはいけないという意思が働いてのことだと思うけど。それにも関わらずパチンコ屋はコンビニの数に匹敵するほど日本中にあるし、どこの近所にも一軒や二軒はある。世界から見たらかなりクレイジーな状態だ。家から数メートル歩いたところに麻薬を配っている施設があるようなものでそこからまた数メートル歩けば次のパチ屋がある。政府はパチンコは賭博ではなく大衆のための娯楽と位置付けている。パチンコのどこが娯楽なのかまったく理解できない。パチ屋で台に向かっている人間は楽しそうにしているわけではなく、苦しそうな表情をしている人もいれば焦っているのか冷や汗を流しているような人もいる。一番許せないのが広告を禁止するほど日本の政府はパチンコが害をもたらすものと認識しているにも関わらずいまだにその存在を許していること。韓国の場合はパチンコの破壊力、人間を廃人にしてしまうその性質を早い段階で認識し全面撤廃を実施した。なぜ日本もそれができないのか。やはり警察を筆頭に政治家などがパチンコビジネスで潤っていることを考えると無理か。こういう人間が社会的弱者を食い物にしている限りパチ屋は何があっても日本から消えることはないだろう。日本の闇は深い。芯まで腐敗している。


 消費者金融もまた問題だと思う。金をあまりにも簡単に借りることができるし消費者金融もまたコンビニの数に匹敵するほどどこにでもある。しかもテレビやネットでの広告のほとんどが消費者金融のものだ。いかにも善である、あなたの味方であるという風に宣伝しているけどあれは地獄の一丁目以外何でもない。下手したら死への第一歩だ。計画的に利用してくださいとか言ってるけどそもそも金を借りるために消費者金融に駆け込む人間なんて金に関して計画性がないからそうするわけだし。罠以外何でもない。消費者金融の広告もいい加減に禁止してほしい。広告を見るたびに気分が悪くなる。こう見ると日本は罠だらけだ。

頭の中の現実と実際の現実

 禁パチ二日目。パチ屋に行かずに済んだ。衝動はあったけどやはり一日目と比べたら軽くなっていた。ただ、今日は衝動に抗うのに精一杯で他のことが何もできなかった。そろそろ研究室に復帰し実験の続きをさっさとやってしまおうと思うが気力が底を尽きて行けず。依存からの離脱の初期に現れる症状の一つに無気力がある。それも理解できる。脳が毎日欲していた大好きなものを脳に与えていないわけだから言ってみれば失恋したような状態に似ている。それは何もやる気にならないわ。明日は金が入る日。スリップしやすい日でもある。乗り越えられることを祈ろう。


 自分は自分が思っているほどヤバイ状態にあるのかそうでないのかよく考えることがある。今はこれだけヤバイ状況に置かれていると思っていても実際は思っていた以上にもっとヤバイ状況だったとかその逆もある。確かに四十目前で金もなくいまだに博士号が修得できず大学院に在籍していることを考えるともう俺の人生は終わったと思う時もある。さらに多重債務の問題もある。今やっている転職活動がたとえうまくいって優良な会社に就職できそれなりの給与を貰えるようになったとしてもそのほとんどが借金の返済に吸収される。残りの人生は借金を返済するための奴隷と化す。それを考えてしまうと生きている理由がほとんどなくなり死んだ方がいいのかよく考える。多重債務者が自殺する話はよくあるけど、その気持ちが痛いほどよくわかる。処方されている睡眠薬の致死量ってどのくらいなのだろうかとか楽に死ねるのかとか気が付いたら考えている自分がいたりする。だからなるべく今は何も考えないようにしている。


 転職エージェントには英語ができ英検一級とTOEIC990点を持っていると伝えるとそれはすごいと驚いていたけどそれほどすごいものなのだろうか。これを持っていることによっていい会社に就職できたりするのであろうか。今までこういう資格が役に立った経験はない。確かに他人にこういう資格を持っていると伝えるとすごいと驚かれるけどその程度のものだ。その先に何か得するようなことがあったという経験は今のところない。でも、もしかしたら自分は思っているほどヤバくないのかもって少しだけ思ったのは確かだ。他の人が持っていないような能力を持っていることはアドバンテージであるが、一人の人間っていうのはアドバンテージばかりではなくディスアドバンテージもあるものでその両方の総合で全体的な能力とかポテンシャルが判断されるものではないのか。だから英語ができるという長所を持っていたとしても人生においていろいろなことに関して有利になるとは限らない。まあ、ないよりはましかな。


 就職できたとしてもちゃんと務まるのかどうかも不安である。うつ病と診断されもう10年近く通院しているけど、当初と比べたら良くなったもののいまだに軽い薬を服薬しているし極端に無気力になる日もある。会社に務めるとなると毎日コンスタントに同じ生活リズムで生活することも求められるわけだし今日は気力がないから出社できないとか通用しないし。今の研究室みたいに好きな時間に行って好きな時間に帰るってわけにもいかないし。将来的には会社に務めることを見越して今のうちから規則正しい生活を構築していこう。自分が一番苦手とすることだけど挑戦してみないと何も始まらない。

パチンコの正体

 今日はパチ屋に行かずに済んだ。起きたら衝動はあったが行かずに一日寝ることにした。小さな前進と言って良いのであろうか?とりあえず一日はパチンコなしで過ごすことができた。この積み重ねが大事。明日も衝動に捕らわれないことを祈ろう。


 近所のパチンコ屋にいつも行っているのだけど、いつ行っても絶対にいる客がいる。いわゆる常連。前から思っていることがある。彼らは一体何者なのか?社会の中で生きていくには仕事も収入も必要なのは当たり前。でも一日中、しかも毎日パチンコ屋にいるのだったら仕事はいつしているのであろう?何も仕事をしなくても今の日本の社会では金を手にする方法はいくつもある。生活保護、年金、学生だったら親から金を無心することができる。実際にパチンコ屋に行くとこういう類の常連がいる。明らかに学生な常連で朝から晩まで毎日いる奴。服装がぼろぼろでホームレスに近い姿をしている奴。定年後の老人みたいな人。全員パチンコに毒されている人間。見方によっては被害者だ。パチンコは人によっては麻薬に匹敵するくらいの中毒性がある。いったん依存してしまえば一生抜けることができないという専門医もいる。今更だけどパチンコになんかに初めから手を出さなければ良かった。人生がだいぶ変わっていたであろう。研究者として今頃成功をおさめていた可能性だって十分にある。高校生の時に初めてパチンコを打った。親も気付いていた。なぜ止めてくれなかったのか。親を逆恨みしたい気持ちも少しはある。


 人は一日一日を積み重ねて少しずつ人生を前進させていくものであると思う。パチンコはこの積み重ねを抑制するものであり、パチンコ屋で過ごした一日は無駄な一日になる。その日の分の人生の積み重ねはなし、前進はなし。そしてパチンコについに依存してしまい毎日行かないと発狂してしまいそうになるレベルまでなってしまうと人生の前進はフリーズする。人によっては何ヶ月、何年という単位で人生が止まり先に進めないまま囚われる。そして気が付いたら何も達成しないままただただ歳をとってしまっている自分に気付く。周りは結婚したり、子供が生まれたり、車やマイホームを購入している中で自分はそういうものから遠い場所にいることに気付く。パチンコ屋は昔歴史の授業で教わったアヘン窟を連想させる。廃人を生産するためだけに存在し、その過程でパチンコ屋を経営している側とそれに関連する団体が潤う。可能性に満ちた一人の人間を廃人にしてしまう施設が数百メートルごとに乱立する今の日本の社会は壊れている。一部のエリート層が民衆を食い物にしていい生活をできるような仕組みになっているようにしか思えない。民衆にパチンコは大衆娯楽であり賭博ではないと訳のわからないメッセージを刷り込ませどんどん民衆を地獄に陥れている。笑わせるな。回り回って天罰は必ず下る。

依存

 今日も起床したあといつもの強烈な衝動に襲われ抗えずパチンコ屋に向かった。もうほとんど金がないのに…。そんな小銭でパチンコを打っても勝てるわけがなく、その金もパチ屋に献上してきた。もう明日は打ちに行きたくても打ちに行けない。金がない。でもこれはチャンス。かつて2ヶ月とか3ヶ月とか禁パチに成功したことがあったがその時の経験から言えることはパチンコの誘惑はどんどん薄れてゆく。一日行かずに済めばその次の日の衝動の強さは弱まる。そして行かない日を積み重ねて行けばどんどん解毒され衝動をほとんど感じなくなる。問題は衝動を感じなくなるくらいまでになるとパチンコの誘惑の強烈さ、あの抗えないほどの強さまでも忘れてしまう。それがいままでのスリップの原因になっていて何かの拍子にフラッとパチ屋に行ってしまう。今度長期の禁パチに成功したら忘れないように注意しよう。


 パチンコ屋で友人に会った。彼もずいぶん長いことパチンコを打っているけど依存症ではないのか?長期にわたってパチンコを打ち続け依存症に陥らずにいられるものなのだろうか?見た感じは依存症には全然見えないけど。世の中にはいろんな依存症がある。酒、タバコ、女、麻薬。依存症になる人とならない人がいる。その差はなんだろう?毎日仕事から帰って晩酌する人もいると思うけど依存症にはならない人もいるし、長年タバコを吸っていた人でもスパッと禁煙できる人もいる。その逆の人もいて酒を辞められず施設に入院する人もいるしタバコに関しては今や禁煙外来というものまである。体質つまり遺伝が関係しているという説も耳にしたこともあるけど本当だろうか。自分はむしろ精神の強さが関係しているのではと思う。ちゃんと人生の中で起きる諸事情に向き合い何かに向かって逃げない精神力。それこそが何かに対する依存を生み出さない一番の力かも。もちろんこの力の強さが遺伝子によって決まるということであれば遺伝説が正しくなるけど。あと大事なのは人生におけるバランス、メリハリなのではないだろうか。依存性のあるものに向かって逃げたくなるポイントまでストレスとかフラストレーションを溜めずうまい具合にガス抜きしてバランスをとる。これも大事かも。そのために始めた合気道でもあるのだけど最近は全然稽古に顔を出していない。初段をとったあと新鮮味がなくなり、さらに体力も衰え合気道に対する関心が薄れている。今後のためにも体力をつけ二段を目指すのも悪くないかも。

肩書きと偉さ

 今日も失敗。朝起きたらパチンコの誘惑が強烈に襲ってきて我慢できず気が付いたらパチンコ屋に向かっていた。残り少ない数千円を一瞬で負け、一旦帰宅し、家の中で唯一金になるプレステ4を売りに出した。そしてその金を握って再びパチンコ。もちろん負け。このパターンも何回目だろう。


 研究室に強引に行こうとも思ったけどどうしても嫌だった。雰囲気が悪いっていうのもあるけど教授がアホすぎて我慢ならない。ラボの管理者である手前ラボの中で起きる問題を解決する義務もあるし所属しているメンバーの面倒を見る責任もある。でもうちの教授は何か問題が起きても他人事のように無関心を貫き勝手に解決すると思っている。メンバーの面倒もまともに見ず、博士号を修得できずにラボを去った人間も多い。自分もその一人になりそうだ。本当に教授の器ではない。


 多分日本という国は一番肩書きがあてにならない国だろうと思った。そもそも肩書きなんてものは社会という人工的なインフラの中で人を格付けするものであるが立派な肩書きを持っていても必ずしもそれに値する立派な人間だとは限らない。自身の肩書きに酔って自分が偉い人間だと錯覚する人もいる。人間に偉いとか偉くないとかそんなもんはそもそもない。個人によってできるできないはあるとしても偉い偉くないはない。肩書きというものは時には本当の自分を見失わせる。目を曇らせる。うちの教授は一生自分の肩書きに酔って真の自分を見失っていればいいんだ。真の自分を知ることなく人生を終えればいいさ。一生無駄に生きればいい。という自分も人生をだいぶ無駄にしてしまっている。更生への道を探らねば。