地獄の出口を求めて

おじさんの地獄生活の記録。某国立大で博士号を目指して研究に従事。しかしギャンブルにハマり多重債務者になり借金を背負っての地獄の日々。地獄からの脱出のために日々思ったことやったことをここに綴りたい。

106日目

 もう随分長いことこれを書いていなかったけど今日は書きたい気分だ。書いていろんなものを吐き出しもしなければ眠れそうにない。今日で禁パチ106日目。今までの最高記録だ。もうここまで来れば完全に逃げ切りパチンコのことなんか微塵も考えないんだろうなと思っていたけどやはりギャンブル依存は怖い。今だに強い負荷、ストレスがかかるとパチンコに逃げたくなる気分が沸々と湧いてくるときがある。以前と比べればはるかに抗いやすくなり今のところはパチンコに行かずに済んでいるが、禁パチ生活が長くなればなるほどパチンコになぜ行ってはいけないのか、なぜ禁パチをしようと思ったのか忘れがちになる。だから106日経過した今でも自分がギャンブル依存者であってパチンコに一度でも行ってしまえば再び地獄の日々が始まることを自分に言い聞かせる必要性を感じている。
 最近はいろいろと負荷がかかることが多かった。親父が肺がんの手術を受け、抗がん剤を服用していること。今のところは社会復帰して会社に通勤しているけどこの一件以降人はいつか死ぬものだと強く感じた。自分の親のように今までいつでもいた人間でも何がきっかけでいつ亡くなるかわからない。そしてそれが自分の心、そして人生にどのように響き、自分がどのように変化するかも予測がつかない。親父は社会復帰できたものの正直今だに安心できていない自分がいる。
 禁パチをここまで長く続かせることができていることは素直に良いことだと思う。ただ禁パチをすることによっていろいろと気づかされることも多い。一つは自分にはほとんど何もないということ。借金があるのでもちろん金はない。それにパチンコに奪われた時間で築けたはずのたくさんのものももちろんない。パチンコに行ってなかったらもしかして今と比べたら勉強に励んで今より何倍も知識と経験を身につけ研究も想像ができないほど進んでいたかもしれない。今頃博士号を手にしていたかもしれない。ただ現実は自分には”無”しかない。来月で40になる男が金も地位も将来性もない。ただあるのは無と絶望だけ。頭の中で楽しくて幸せな将来を描くことなんて不可能。正直生きる気が失せる。ただ償いの意味も込めてこんな人生でも生き抜かねばならないと思う。次生まれ変わった時こそ同じ過ちを繰り返さず有意義な人生を送るためにも。
 今は目の前にある今の自分にできることをやるしかない。今の自分にあるのは研究だけだ。とにかく力の限り無になって研究に没頭する。そしてその道がどこへ繋がるか見極めるという選択肢しか残されていない気がする。ここ最近は真摯に研究に向き合って実験に望んでいたからかはわからないけど良い結果が続いている。今日の実験の結果はダメだったけど。研究を長いこと続けていれば毎日実験でいい結果が出るとは限らないことくらいわかるけど、ただやはり1日頑張って実験をしてダメな結果が出るとなかなかのボディーブローだな。もう随分長いこと研究をしているけどこれだけは慣れない。凹む。また明日頑張るしかないか。

もう手遅れかも

 今日、母親から父親が肺がんと診断され月末に入院、手術を受けることを知らされた。父親とは正直そこまで親しくはないし自分にとってはあまりよく知らない人、他人に近い。腹を割って話したこともないし、父親が今までどういう人生を送ってきて何をどう思って、考えて生きていたかまったくわからない。むしろ憎んだ。今でも憎んでいる部分もあるかもしれない。仕事の都合でアメリカから急に日本に帰国しないといけなくなったのは今となっては理解できるけど、当時まだ中学生だった自分にはただ今まで暮らしてきた故郷からいきなり謎の国へ引き摺り込まれたこと以外なんでもなかった。知らない日本という国での暮らしを強制され、適応できずに何年も地獄を味わった。後にこれが原因でうつ病を患うことになり、そしてギャンブル依存へ。借金地獄へ。
 帰国後は両親は何もケアしてくれなかった。まるで苦しんでいる自分を見て見ぬふり。あの時なんらかの手を打ってくれていれば今頃病気にもならず普通に暮らせていたかもしれない。だから憎かった。今でも無防備だった中学生の自分の面倒を見てくれなかったことに対する恨みも残っているかもしれない。
 ただ、完全には恨めない。病気になった自分に毎月仕送りをしてくれたり時折食料を送ってくれたり。その金を自分はギャンブルにつぎ込んだり借金の返済に充てていた。本当に最悪だ。ギャンブル依存になるのは本人のせいではないという人もいるけどたとえそうだとしても自分は最悪だ。適当な理由で金が必要だと家族から金を無心してはギャンブル。親はもう金が底をつきている状態。今は何をどう考えればいいか正直わからない。ギャンブル依存の怖さ。家族を傷つけてしまった罪悪感。ギャンブル依存者を製造するパチンコ業界に対する恨み。それを容認している日本政府に対する憎しみ。あまりにもいろんな考えが頭の中を同時に巡っていて混乱し、そして落ち込んでいる。今までにないほどに。
 いままで親の支援があって続けられてきた研究を続けられなくなる可能性も出てきた。父親が生還しない可能性もある。もしもそんなことが起きたら自分を許せない。ギャンブル依存に屈して自分の将来をダメにし、家族まで殺してしまったようなものだ。苦しい。ただただ苦しい。後悔の念。押し潰されそうなほどの罪悪感。死んで逃れたいとしか思えない。
 今になってギャンブル依存の本当の怖さを実感できた気がする。パチンコにハマったら時間を無駄にする。健康を害する。よく言われていることだ。でもそんなことはまだ可愛い方だ。ギャンブル依存の本当の恐怖は一人の人間の人生、そしてその人の周りにいる人の人生を粉々に粉砕するところにある。こうして追い詰められて初めてその恐怖を肌で感じることができた気がする。今はまさに自分のこれからの人生がどういう方向へ向かうかが決まる時だ。神に今一度許しを請う。許しを得られるのであれば必ず改心してみせる。でも、許しを得られなくて地獄に叩き落とされても自分はそれを甘んじて受ける。

身の丈に合った生活

 身の丈に合った生活をする、そしてその範囲内で自分なりの幸せを見つける。またYouTubeで大愚和尚の動画を見ていたらこのようなお話をされていた。身の丈に合わないような生活水準を持って生活をすると生活が崩壊するというような内容だ。例えば自分の給料から考えて高価な贅沢を続けていれば金は尽き、生活は先細りする。そして貧乏になる。これを今の自分に置き換えて考えてみた。今の自分にとって身の丈に合っていない贅沢とは何か。一つはバスを使うこと。研究所に向かうために自転車をこぐのが面倒だからバスを使ってしまう。これを毎日繰り返せば少しずつ金は削がれていく。他にも自炊したくないからコンビニで食事を買ってしまう、タバコを吸う。いろいろ思いつくものがあった。


 そして何よりも今の自分に一番身の丈に合っていないのがパチンコだ。よくよく考えてみるとパチンコが身の丈に合っているギャンブルだと言い切れる人はほんのごく一部の富裕層だけだと思う。年収や貯蓄が億単位の人だけではないのでは。パチンコ屋に長時間居座って諭吉を紙切れのように使える人というのは大して働かずして大金を儲けている人だけ。自分はそう思う。世の中にはこのような人もいるけど本当にごく一部。パチンコ屋に入り浸っている人の恐らく九割九分以上は身の丈に合っていないキャンブルに興じている。どう見ても無職ないつパチンコ屋に行っても必ずいるボロボロな服を着た常連、生活保護が受給される日になると現れる軍団、明らかに病気だとしか思えない程パチンコ台を狂ったようにバシバシ叩く客。全員身の丈に合っていないギャンブルに狂っている。そしてこういう人は必ず地獄を見る。もしかしたらもうすでに地獄の最中にいるのかもしれない。破産に追い込まれたり、ホームレスになったり、金欲しさの犯罪に走ったり。パチンコは本当に人を破滅させるギャンブルだ。


 自分も本当にパチンコ業界から逃げないと死ぬことになると改めて自覚した。今日はまた金がなくてパチンコを打つことができなかったけど、自分がいかに深刻な病気に罹っているか再認識できた一日だった。朝起きたらパチンコを打ちたいという衝動が強く襲いかかってきてどうすれば軍資金を工面できるか必死に考え始めた。何か売れるものはないか、金を貸してもれえる人はいないか。はっきり言って狂っている。そして依存症というものは本当に怖い病だと思った。自分の思考までを支配しコントロールしてしまう恐ろしい病。その人からその人の人格や個性を奪ってしまう恐ろしい病。


 大愚和尚の動画を見て今の自分が身の丈に合った生活を送る必要があることを学べて良かったと思っている。そしていくら貧乏であっても身の丈に合った生活を送ることによって自分に合った幸せは必ずあるとわかったことも一つの救いだとも思った。いきなり今までの生活をガラリと変えてまったく違う生活をいきなり始めるのは難しいとは思うけど毎日工夫して少しずつ今の自分に合った生活に変えていこうと思う。でも、一つだけ強引でもいいからやめないといけないことは間違いなくギャンブルだ。

最近の学び

 最近、YouTubeを見ていたら偶然大愚和尚というお坊さんのチャンネルを発見した。チャンネルの内容は大愚和尚が毎回送られてくる悩みメールに対して仏教の教えを交えて回答していくというものだ。自分は無宗教だし仏教の教えに浸かるつもりはないけど、この大愚和尚はそこまで仏教の教えを吹き込んで来ようとはせず、どちらかというと自身の豊富な経験から悩みに対する回答をしている感じだ。あまり宗教っぽくないから動画をいくつか見て見たけど自分が思っていた以上に貴重な学びがあった。何個もある動画の中には金に関するものや人間関係に関するものやいろいろとあった。そして、依存に関して話している動画もあった。これはギャンブルに限らずいろんな依存に関してお話をされていた動画だったけど驚く話をしていた。聞いて正直驚いたとともにそういう考え方もあるのかと思った。和尚曰く、依存がもたらす強力な衝動に抗えば抗うほど、その衝動は強くなりより強く引きつけられる。そして折れる。だから衝動はそこにあるものと認め腫れ物のようにそっとしておくのが良いというような事を話されていた気がする。自分の今までの経験から考えてみると、確かにそれは正しいかもと思った。ギャンブラーズアノニマスのホームページにも似たようなことが書いてあったような気がする。自分の力で変えられないものはそうと認め変えられるものから変えて行こうというような内容だったかな。これは実践に移す価値があると思った。依存の衝動に襲われる度にそれに必死に抵抗していたけど抵抗することを一回やめてみよう。そしてその衝動はそこにあるものであって自分の力では消せるものではないと認めた上で、自分の力で変化させることが可能な生活の他のいろいろな要素から変えてみようと思った。これで依存から脱却できたら大成功だ。


 今日は研究室でスペインから留学している学生とだいぶ長く話した。彼は自分より10歳も年下で性格も自分とは真逆で陽気な奴だけど、ここにも思っていなかった学びがあった。彼とは以前からいろんな話をする仲で彼の性格の明るさと自分の性格の暗さに関して議論したことがある。今日はその続きみたいなもので“なんでお前はそんなにポジティブなのだ。”、“なんでお前はそんなにネガティブなのだ。”の応酬から始まった。ふざけながら面白おかしく話している中で彼の話の中に思わずなるほどと思ってしまうような学びがあった。彼曰く、自分から幸せとか楽しみを探そうとしなければそれは性格だって暗くなるし鬱も回復しない。そうかもと思った。自分は今とんでもない逆境に置かれている。もう苦しくて仕方がない。だからそんな状況の中で幸せを探そうとか楽しみを探そうとか、そんな考えは一度たりとも頭をよぎったことがなかった。でも考えてみれば人間って毎日小さくてもいいから楽しみや幸せがなければ前進する力は発揮できない。だからこんな闇のどん底だけど小さくてもいいから毎日少しだけ楽しいなとか幸せだなと思えるようなことを作ったり探してみようと思った。難しいことかもしれないけどアンテナを張っておけばきっといままで当たり前だと思っていたことが楽しさや幸せの種になるかも。そしてそれが前進するための推進力になる。

善を積む

 日本語には一日一善という言葉がある。善行を積むことは良いことだという意味だ。今日近所のスーパーマーケットでのある出来事でこの言葉が頭をよぎった。買い物を済ませレジで支払いをし、レジ袋に買った商品を詰めていたら少し離れたところに杖をついた老人がいることに気付いた。スーパーではよく見る光景だから何も気にしなかったけど、その老人が品物をレジ袋に詰めている最中に杖を落とした。拾おうと頑張るものの腰が悪いのか床に落ちた杖に手が届かない。ちょっと情けないけどそれを見ていた自分は助けてあげようか少し迷った後老人の杖を拾ってあげた。老人は特にありがとうとか何も言わなかったけど気持ちよかった。久しぶりに他人に対して良いことをしたし期待していなかった満足感とでも言えばいいのだろうか、そういう気持ちになった。


 一日一善、善行を積む、これは本当に自分にとって良いことなのかもしれないと思った。そしてもう一つ思ったことはこれこそ自分が探し求めていた地獄からの出口へと繋がっているのではないかと思った。毎日を人の助けになるようなことをなるべくするようにしていれば荒んだ自分の真っ暗闇の心が徐々に浄化されて行くのではないか。そう思った。人を助け自分の心が喜べばいつかは闇は消えるのではないか。


 今の自分には自身でコントロールするのが難しい闇もある。それはうつ病だったりギャンブル依存であったりする。これらが払拭されるかどうかはわからないけどこれ以外の闇ならどうにかなるかもしれないと思う。自分が思うに闇というものは人間だったら誰もが少なからず持っている。落ち着いて自分を見つめてみれば誰もが自分の闇に気付くことができると思う。誰かが嫌いだったり、妬みだったり、ずるい部分だったり人によっていろいろだと思う。自分も例外ではない。機嫌が悪い時はいらいらしたり、嘘をついてしまったり、人の良い部分ではなく悪い部分ばかり見てしまうとかである。でも心が喜ぶこと、つまり善行を行うことによってこう言ったものは少しずつ改善して行くような気がする。そしてこれを積み重ねてゆけばいつかは胸を張って自分は善人だと言える日が来るかもしれない。


 でも自分の心の闇を払い浄化するために良いことをするというのは非常に利己的な考えではないのかとも思う。結局自分が得するために善を行うわけで、これは善ではなく偽善なのではと思ってしまう。真の善を行う人というのは何も考えずに自然とやっているのだろうし。そういう人は綺麗な心を持っているのだろう。自分にはこの真の善を行える心が備わっているのか正直怪しいところだ。ここまで心が闇に落ち荒んでしまっていては自分の心に少しでも光の部分があるのか考え込んでしまう。でも、確かに言えることは今日スーパーで老人の杖を拾ってあげたときには何も考えてなかった。自分が得するのか損するのかの考えは一切なかった。これはまだ心に光のかけらが残っている証拠なのか。すぐに答えは出ないかもしれないけど偽善者と呼ばれようが善を積むことを意識してこれから生きて行こう。