地獄の出口を求めて

おじさんの地獄生活の記録。某国立大で博士号を目指して研究に従事。しかしギャンブルにハマり多重債務者になり借金を背負っての地獄の日々。地獄からの脱出のために日々思ったことやったことをここに綴りたい。

身の丈に合った生活

 身の丈に合った生活をする、そしてその範囲内で自分なりの幸せを見つける。またYouTubeで大愚和尚の動画を見ていたらこのようなお話をされていた。身の丈に合わないような生活水準を持って生活をすると生活が崩壊するというような内容だ。例えば自分の給料から考えて高価な贅沢を続けていれば金は尽き、生活は先細りする。そして貧乏になる。これを今の自分に置き換えて考えてみた。今の自分にとって身の丈に合っていない贅沢とは何か。一つはバスを使うこと。研究所に向かうために自転車をこぐのが面倒だからバスを使ってしまう。これを毎日繰り返せば少しずつ金は削がれていく。他にも自炊したくないからコンビニで食事を買ってしまう、タバコを吸う。いろいろ思いつくものがあった。


 そして何よりも今の自分に一番身の丈に合っていないのがパチンコだ。よくよく考えてみるとパチンコが身の丈に合っているギャンブルだと言い切れる人はほんのごく一部の富裕層だけだと思う。年収や貯蓄が億単位の人だけではないのでは。パチンコ屋に長時間居座って諭吉を紙切れのように使える人というのは大して働かずして大金を儲けている人だけ。自分はそう思う。世の中にはこのような人もいるけど本当にごく一部。パチンコ屋に入り浸っている人の恐らく九割九分以上は身の丈に合っていないキャンブルに興じている。どう見ても無職ないつパチンコ屋に行っても必ずいるボロボロな服を着た常連、生活保護が受給される日になると現れる軍団、明らかに病気だとしか思えない程パチンコ台を狂ったようにバシバシ叩く客。全員身の丈に合っていないギャンブルに狂っている。そしてこういう人は必ず地獄を見る。もしかしたらもうすでに地獄の最中にいるのかもしれない。破産に追い込まれたり、ホームレスになったり、金欲しさの犯罪に走ったり。パチンコは本当に人を破滅させるギャンブルだ。


 自分も本当にパチンコ業界から逃げないと死ぬことになると改めて自覚した。今日はまた金がなくてパチンコを打つことができなかったけど、自分がいかに深刻な病気に罹っているか再認識できた一日だった。朝起きたらパチンコを打ちたいという衝動が強く襲いかかってきてどうすれば軍資金を工面できるか必死に考え始めた。何か売れるものはないか、金を貸してもれえる人はいないか。はっきり言って狂っている。そして依存症というものは本当に怖い病だと思った。自分の思考までを支配しコントロールしてしまう恐ろしい病。その人からその人の人格や個性を奪ってしまう恐ろしい病。


 大愚和尚の動画を見て今の自分が身の丈に合った生活を送る必要があることを学べて良かったと思っている。そしていくら貧乏であっても身の丈に合った生活を送ることによって自分に合った幸せは必ずあるとわかったことも一つの救いだとも思った。いきなり今までの生活をガラリと変えてまったく違う生活をいきなり始めるのは難しいとは思うけど毎日工夫して少しずつ今の自分に合った生活に変えていこうと思う。でも、一つだけ強引でもいいからやめないといけないことは間違いなくギャンブルだ。

最近の学び

 最近、YouTubeを見ていたら偶然大愚和尚というお坊さんのチャンネルを発見した。チャンネルの内容は大愚和尚が毎回送られてくる悩みメールに対して仏教の教えを交えて回答していくというものだ。自分は無宗教だし仏教の教えに浸かるつもりはないけど、この大愚和尚はそこまで仏教の教えを吹き込んで来ようとはせず、どちらかというと自身の豊富な経験から悩みに対する回答をしている感じだ。あまり宗教っぽくないから動画をいくつか見て見たけど自分が思っていた以上に貴重な学びがあった。何個もある動画の中には金に関するものや人間関係に関するものやいろいろとあった。そして、依存に関して話している動画もあった。これはギャンブルに限らずいろんな依存に関してお話をされていた動画だったけど驚く話をしていた。聞いて正直驚いたとともにそういう考え方もあるのかと思った。和尚曰く、依存がもたらす強力な衝動に抗えば抗うほど、その衝動は強くなりより強く引きつけられる。そして折れる。だから衝動はそこにあるものと認め腫れ物のようにそっとしておくのが良いというような事を話されていた気がする。自分の今までの経験から考えてみると、確かにそれは正しいかもと思った。ギャンブラーズアノニマスのホームページにも似たようなことが書いてあったような気がする。自分の力で変えられないものはそうと認め変えられるものから変えて行こうというような内容だったかな。これは実践に移す価値があると思った。依存の衝動に襲われる度にそれに必死に抵抗していたけど抵抗することを一回やめてみよう。そしてその衝動はそこにあるものであって自分の力では消せるものではないと認めた上で、自分の力で変化させることが可能な生活の他のいろいろな要素から変えてみようと思った。これで依存から脱却できたら大成功だ。


 今日は研究室でスペインから留学している学生とだいぶ長く話した。彼は自分より10歳も年下で性格も自分とは真逆で陽気な奴だけど、ここにも思っていなかった学びがあった。彼とは以前からいろんな話をする仲で彼の性格の明るさと自分の性格の暗さに関して議論したことがある。今日はその続きみたいなもので“なんでお前はそんなにポジティブなのだ。”、“なんでお前はそんなにネガティブなのだ。”の応酬から始まった。ふざけながら面白おかしく話している中で彼の話の中に思わずなるほどと思ってしまうような学びがあった。彼曰く、自分から幸せとか楽しみを探そうとしなければそれは性格だって暗くなるし鬱も回復しない。そうかもと思った。自分は今とんでもない逆境に置かれている。もう苦しくて仕方がない。だからそんな状況の中で幸せを探そうとか楽しみを探そうとか、そんな考えは一度たりとも頭をよぎったことがなかった。でも考えてみれば人間って毎日小さくてもいいから楽しみや幸せがなければ前進する力は発揮できない。だからこんな闇のどん底だけど小さくてもいいから毎日少しだけ楽しいなとか幸せだなと思えるようなことを作ったり探してみようと思った。難しいことかもしれないけどアンテナを張っておけばきっといままで当たり前だと思っていたことが楽しさや幸せの種になるかも。そしてそれが前進するための推進力になる。

善を積む

 日本語には一日一善という言葉がある。善行を積むことは良いことだという意味だ。今日近所のスーパーマーケットでのある出来事でこの言葉が頭をよぎった。買い物を済ませレジで支払いをし、レジ袋に買った商品を詰めていたら少し離れたところに杖をついた老人がいることに気付いた。スーパーではよく見る光景だから何も気にしなかったけど、その老人が品物をレジ袋に詰めている最中に杖を落とした。拾おうと頑張るものの腰が悪いのか床に落ちた杖に手が届かない。ちょっと情けないけどそれを見ていた自分は助けてあげようか少し迷った後老人の杖を拾ってあげた。老人は特にありがとうとか何も言わなかったけど気持ちよかった。久しぶりに他人に対して良いことをしたし期待していなかった満足感とでも言えばいいのだろうか、そういう気持ちになった。


 一日一善、善行を積む、これは本当に自分にとって良いことなのかもしれないと思った。そしてもう一つ思ったことはこれこそ自分が探し求めていた地獄からの出口へと繋がっているのではないかと思った。毎日を人の助けになるようなことをなるべくするようにしていれば荒んだ自分の真っ暗闇の心が徐々に浄化されて行くのではないか。そう思った。人を助け自分の心が喜べばいつかは闇は消えるのではないか。


 今の自分には自身でコントロールするのが難しい闇もある。それはうつ病だったりギャンブル依存であったりする。これらが払拭されるかどうかはわからないけどこれ以外の闇ならどうにかなるかもしれないと思う。自分が思うに闇というものは人間だったら誰もが少なからず持っている。落ち着いて自分を見つめてみれば誰もが自分の闇に気付くことができると思う。誰かが嫌いだったり、妬みだったり、ずるい部分だったり人によっていろいろだと思う。自分も例外ではない。機嫌が悪い時はいらいらしたり、嘘をついてしまったり、人の良い部分ではなく悪い部分ばかり見てしまうとかである。でも心が喜ぶこと、つまり善行を行うことによってこう言ったものは少しずつ改善して行くような気がする。そしてこれを積み重ねてゆけばいつかは胸を張って自分は善人だと言える日が来るかもしれない。


 でも自分の心の闇を払い浄化するために良いことをするというのは非常に利己的な考えではないのかとも思う。結局自分が得するために善を行うわけで、これは善ではなく偽善なのではと思ってしまう。真の善を行う人というのは何も考えずに自然とやっているのだろうし。そういう人は綺麗な心を持っているのだろう。自分にはこの真の善を行える心が備わっているのか正直怪しいところだ。ここまで心が闇に落ち荒んでしまっていては自分の心に少しでも光の部分があるのか考え込んでしまう。でも、確かに言えることは今日スーパーで老人の杖を拾ってあげたときには何も考えてなかった。自分が得するのか損するのかの考えは一切なかった。これはまだ心に光のかけらが残っている証拠なのか。すぐに答えは出ないかもしれないけど偽善者と呼ばれようが善を積むことを意識してこれから生きて行こう。

パチンコが奪うもの

 パチンコ依存症になって何を失ったかあるいは何をこれから失うであろうか考えてみた。他の依存症に当てはまるかどうかはわからないけどギャンブルに依存することは本質的には酒や薬などの物質に依存することとさほど差はないと思っている。ギャンブル依存者がなぜ博打をやめられなくなるかというと脳内麻薬とも言われているエンドルフィンに対する依存性があるからであって、エンドルフィンも体の中で作られる強力な依存性を持つ化学物質だ。


 まずシンプルにストレートに考えると金と時間を失う。人にとっては生命線だ。ギャンブルにつぎ込んだ金を今まで全部貯金していたらどれほどの金額になっていただろう。そしてそのお金使って今頃はどれほど今とは質の違う生活を送っていただろう。多分普通の人あるいはそれ以上の生活ができていたかも。莫大な時間も無駄にしてきた。これはパチンコ依存特有なのかもしれない。パチンコを打つってことは時間のかかることだ。下手した朝から晩までパチンコ屋に拘束されることだってある。その時間を例えば研究や勉強に回していたら今頃博士号はとっくに修得できていただろう。そして留学もできていたかもしれないし今の自分の年齢から考えると助教か准教授になれていたかもしれない。


 もう一つ破壊されるものは金銭感覚だ。この前コンビニに晩飯を買いに行ったときに店に貼ってあったバイトの募集を見たのを覚えている。時給850円とか900円とか書いてあってアホくさいと思ってしまった。もちろんこの考えは間違っている。一時間働いて貰える900円は貴重な金だ。ただパチンコ依存者の破壊された金銭感覚からすると900円という金額はパチンコで一瞬で消える金額でもあり運良く当たったらものの数秒で稼げる金額だ。この壊れた金銭感覚が普段の生活にも流れ込んでくる。そうすると節約しようという思考も皆無になるし自然と金使いも荒くなる。


 健康面でもパチンコホールという環境は最悪だ。タバコの煙で充満しているし絶えず爆音がなっているから家に帰ってきても耳がキーンと鳴ってるし。長期的に見たらガンになるリスクも高くなるだろうし難聴にもなるんだろうな。何かの記事か本で読んだことがあるけど普段パチンコを打たない人にとってはパチンコホールっていう環境は拷問部屋とさほど変わらないらしい。人によっては頭痛がしたり吐きげを催したりするらしい。そんな環境の中で平気で一日過ごせる人間ってやっぱり明らかにおかしい。というか壊れているに違いない。それにほとんどの時間椅子に座っているわけだから運動不足に陥るし体力の低下にもつながる。これは合気道の稽古に行くと嫌という程自覚する。大して動いてもいないのに汗が滝のように流れ息が切れる。まったくなさけない。


 今までパチンコに依存することによってたくさんのものを失ってきた。下手したらもう取り返しのつかないところまで行っているのかもしれない。そしてパチンコをやめなければこれからもたくさんのもが奪われる。本気で自分に打ち勝って人生を奪還したい。

心が軽視される時代


 今週は具合が悪くて何も手につかなかった。体調というよりは心労と言った方が正確だろうか。とにかくいろいろと疲れた。パチンコをやめようとしているにも関わらず毎日のように気が付いたら自分の足がパチンコ屋に向かっている自分が嫌だ。そして負けた時の行かなければよかったという後悔。また、パチンコに行く、行かないは自分の意志ではコントロールできないのかもと思うと絶望が一気に肩にのしかかってくる。やはり依存症というものは一個人の意志でどうにかなるものではないのであろうか。とにかく今日で金は尽きた。明日は打ちたくても打てない。これをチャンスだと思って明日一日はしっかりと体から毒を抜いておこう。そして明日をきっかけにパチンコの衝動に抗える力が湧いてくることを祈ろう。


 鬱の症状も今週は重く出た。金曜はラボの論文紹介の集まりの当番だったけど何をしても気力が湧いてこず、ラボのみんなに頭を下げて休ませてもらった。社会人になれたらいいなと思っている人間にとっては致命的だ。会社にとって重要なプレゼンを気力が湧かないから中止にさせてくれと言っているようなものだ。このままでは会社に就職できたとしても務まるわけがない。気力がないときに気力を出す方法があれば一番良いのだけれど、そんなものはあるはずもなく気力が底を尽きてしまったときは休む以外なにもできないというのがうつ病だ。自分の場合は気力がなくなり休んでしまうとそれがまた罪悪感になりさらに頭の中のネガティブ思考が増幅される。自分はダメな人間だとか、自分はもう生きていけない、そのうち自らの手で人生を終わらせざるを得なくなるという考えだ。


 子供の頃に描いた将来はこんなものではなかった。正直子供の頃に何かなりたい職業があったかというとなかった。毎日学校に行って友達とくだらない話で笑ったり、今振り返って考えてみればそんなことをして何が面白いのかと思ってしまうようなことばかりして毎日を楽しく過ごしていた。その日暮らし。でもあの頃はそれでよかった。毎日友達とバカばっかりしていても何も勉強にならないと思うかもしれないけど、あの頃の経験が今の自分の礎になっている。友を思いやる気持ちや他人の気持ちを察する能力。難しい言葉で言えばエンパシー。最近亡くなってしまった世界で一番頭が良いと言われていた宇宙物理学者のスティーブンホーキング博士は人間にとって一番大事なものはエンパシーだと言っていたと聞いたこともある。そのくらいの能力なら誰でも持っていると思う人もいると思うけど、以外とこの能力を持ち合わせていない人が多いというのは今まで自分が出会ってきた人間を見れば明らかである。だから自分が他人と共感しその人の考え、心で感じていることを理解できることを誇りに思っている。数少ない誇りに思える自分の一部だ。この能力を何かに生かせればいいのにと思うこともあるけど何も思いつかない。今の世の中は知能指数、つまりIQを重視して心の知能指数であるEQに至ってはEQなんて聞いたことがないという人間で溢れかえっている。それだけ人の心は軽視されているのかも。人は自滅する生き物だと言われるけどあながち嘘ではないかも。